人生人生

我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心

激務とは言いたくない

時間外労働時間にまた新しい法律ができましたね。

自分の業務を激務と表現するのはある意味奢りだと思うけど、やはり社会通念上ある一定のラインはあるということを示してくれた。

そう示しただけ。

それが適用されるとは限りません。

現在残業200時間ペース。もう毎月こうだもん。しかし激務ではない。もっと辛い人がいるんだ。そう思うようにしている。

足りない自尊心とむせ返るほどの承認欲求

正に自己紹介である。

自分に関わる色んなことをできる限りをコントロールして、この2つの気持ちを認められるような心持ちをキープしていきたい。

 

経験的にわかったことは、自尊心も承認も得ようとしてはダメだということである。特に他者から承認はどんなに素晴らしい人でも得にくいものだ。ましてそこらへんのおじさんである僕が他者から承認される訳はないのである。

また自尊感情であるが、これは己の行動が自分のプラスになっていると信じきれないことが原因だと考えている。

例えば、暴飲暴食、ダイエット活動の放棄、勉強の放棄、給料の搾取、休日労働、あらゆる行動が自分自身の自尊感情を奪っている。

どんなに自尊感情が低い人でも、「自分のためになったな」と思えばそれはその瞬間だけでも誇らしい気分になれるはずなのだ。そんな瞬間を増やしていく必要がある。

家路

今帰っております。

事情はあるにせよこれほどに露骨に人のミスのフォローをせねばならぬものなのか。本人はミスしたことにも気づかず帰ってぐっすり寝ているのだろう。

本当に罪深いと思うが、他の課の人々なので、僕が責められる立場でもない。当人たちは罪の意識すらないかもしれない。人は手痛い失敗以外からは学びづらいものだ。自分の手すら汚れない失敗は認識すらできないだろう。

 

しょうがのないことだ。

 

全ては本人たちではなく、この状況をよしとする風土だ。僕1人2時まで残って仕事すれば達成できるのだから、それ以外を選ぶりゆうがない。

 

それにしてもあれだけ確認して欲しいと言った上で、さらに向こうから具体的な指示を受けて十分に確認したのにも関わらず、いざ会議で当人たちが前提を覆してくる。本当にやめて欲しい。

前向きに生きるということ

前記事続けるということ - 人生人生

 

 

前記事では「ATMとしてより優秀に」ということを書いたが、そもそもATMでありたくはないというのが本懐である。わかっていたものの、周りから全額嫁に渡しているという話を聞くと本当に愕然とする。古代ローマ王朝時代の奴隷もかくやという奴隷っぷりである。

ちなみにうちはおこづかい制であり、残業代等で出た余剰分は全て貯金分に回されることが先日決定した。ただただ無念だ。

オトコが家族を養うことは日本の文化慣習上避けられないこととして、全て受け入れてはいるが、納得し難い。家庭内円満のためとは言え、嫁に「ありがとう」と言いいながらお小遣いをもらう様は我ながら滑稽である。

本当は毎週英会話に通ったり、様々な習い事に使いたかった。ちなみに結婚してからボクシングもやめてしまった。本当に残念だ。

貯金の使い道は将来の子供のためだ。

つまり、僕の稼いだお金は、稼いだ直後から僕という人格を離れてもう別の誰かのものになってしまうのだ。僕の稼いだ時間は僕の人生を消費して得たものだ。それが還元されないということは‥つまり僕の人生は終わったということだ。生はあるがただ呼吸しているだけに限りなく近い。サービス労働ということだ。なんてつまらないんだろう。実際に子供ができればまた認識は変わるのだろうか。そう願いたい。

 

続けるということ

僕のような凡庸中の凡庸が、将来の自分のためにできることと言えば、お金を貯めたり、自分のスキルアップのための時間を持つこと。という事に本当の意味で気がついた。

 

今まで何故気付かなかったのか。いや気づいてはいたが意識が薄くなっていた。

なぜならありがたい事に、何にも意識しなくてもお金はたまっていたし、ある程度スキルアップできていたから。

 

会社の福利厚生で寮に住むことができており、賭博も女も買わない僕としては、浪費しない月であれば何万円も貯金に回すことができた。そのおかげでお金に無意識でいられた。

また、入社した直後はかなり負荷の高い職場であったためか、どんどんと詰め込まれたおかげで少しは技術が身についた。そのために自分のスキルアップに無意識でいられた。

 

しかしこれからは違う。

 

結婚等で環境が変わり、現在では僕の給料から月35万円程度支出に回している。また家事等の負担も今まではかなり適当(週末にまとめて)にやっていたが、同居ということもあり手伝い程度だが時間を費やすようになった。当然家で休む時間少なくなる。(一応、嫁は週一であるが共働きであるため分担している)

仕事にも行き詰まりを感じる。とにかくもっと先進的なアイディアを実現できるようなスキル(アイディアそのものよりも考える土台)作りを今までしてきていない分、職場で空虚な存在になっているような気がする。また精神的に病んだ先輩のフォローの仕事も回されるようになり、どこにも成長する兆しがない。

 

それ自体が成長というかもしれない。責任感の醸成‥いやいやいくらよく言おうとも全ては体良く使われているだけ。

嫁にとってはATM。職場にとっては安全弁。

 

与えられた役割以上の価値がないのだ。

それでは僕は嫌だ。どうしようもなく恥ずかしい。ATMならとびきりデカイ額が引き出せるように、安全弁ならどんなところにでもハマるようになっていけるになりたい。つまり自分の価値を高めることに注力したい。早くこの生活から抜け出せることを夢見ている。

アイディアの枯渇、やる気の枯渇

経験も何もないうちに、とある仕事に特化してしまったばかりに、年次の割に全体的にレベルの低い、アンバランスな担当者になりつつあることに焦りを感じる。

 

とある仕事というのもやり方さえわかってしまえば難しくはないため最初頑張ってしまえば誰でもできるし、後輩がその仕事を行う際は僕が手厚くサポートをするよう、上司から言われている。

 

このような文章を書くだけあって、やはり甘えているのだろうか。誰か導き手がいない限り、なかなかレベルアップできないという固定観念が常にある。

 

‥と言いいながら、何もしないと本当に人生終わってしまうので、残業時間を増やしながら勉強がてら新しい仕事に挑戦する日々だ。しかし、指導してくれる人がいれば‥という思いが抜けきらない。

 

まず明らかな時短になるだろう。そして短い時間に深いところまでいける。

極端な例をあげれば、教育システムな正にそうで蓄積した情報を授業として聞くことで効率よく成長できる。

 

 

もちろん職場で授業をしろというのはおかしいけれど、今の自分の仕事を誰かにパスしたいのであれば、それ相応の手ほどきをするのは当然の義務だ。下の世代の成長が自分の身を助けることにつながるとはどうして考えないのか。

山での気づき

一日自由にしても良いと言われた時、真っ先に思い浮かんだのは山だった。僕は山が好きだ。先日兵庫の山に登った。もちろん1人だ。

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久々の自由な時間で、存分に自分と向き合うことができた。気づいたことは怖いくらい明白だった。1人が好きだ。

 

もうこれから先、自分自身を優先することができない上に、休みの日は疲れた体を引きずって、勝手に入れられた予定をこなすだけの週末になるのかと思うと今から辛くなって狂いそうになる。